北方領土問題とは? 〜長年ロシアと揉めている領土問題。千島列島?日ソ共同宣言?わかりやすく解説!〜
日本が長年他国と揉めている領土問題のひとつ、北方領土問題。
2016年にはロシアのプーチン大統領が来日し、問題解決への進展が期待されましたが、大した進展はなく終わっちゃいました。
今回はこの、北方領土問題は「なぜ、いつから、どのように問題になったのか」という部分にフォーカスを当てながら解説していきますね!
それでは早速、レッツビギン!
目次
北方領土問題の概要
北方領土ってどこ?
北方領土とは、日本の北海道と、ロシアの千島列島の間にある島々を指します!
詳しく見てみると、こんな感じでですね!
- 択捉島(えとろふとう)
- 国後島(くなしりとう)
- 色丹島(しこたんとう)
- 歯舞諸島(はぼまいしょとう)
以上の4つのエリアをひっくるめて「北方領土」と呼びます!
で、この北方領土は「日本のもの」か「ロシアのものか」で揉めている問題が「北方領土問題」ですね!
この問題は、50年以上も続いている、非常に繊細な問題なのです!
「千島列島」の定義
現在の千島列島という言葉には、大きく2種類の定義があり、それが、
- 「択捉島」と「国後島」を含めて「千島列島」
- 「択捉島」と「国後島」を含めずに「千島列島」
です。
日本政府は、2の「択捉島と国後島は含めない」の方の解釈なので、この記事もそれに準じますね!
現状の北方領土
現状の北方領土4島は、1945年の終戦以降全てロシアが実効支配しており、択捉島・国後島・色丹島にはロシア人が普通に生活しています。
で、日本政府は「いやいや、それ、俺らの土地やからロシアが支配すんのおかしくない?」とロシアに抗議していますが、ロシアは「え?何言ってんの?」と華麗にスルーを決めている感じです!
↑択捉島の少年たち
北方領土問題の経緯
では、この北方領土が「どのようにして領土問題となったのか」を歴史を遡ってみていきましょう!
戦前(〜1940年)
日露和親条約(1855年)
時代はさかのぼり江戸時代。
この頃、日本とロシアの国境はスーパー曖昧だったので、1855年の日露和親条約で国境が決められました。
択捉島より南は日本、ウルップ島より北はロシア、樺太は微妙やから両方の国が使えるようにしよう!って感じですね!
樺太・千島交換条約(1875年)
でも、やっぱり樺太を巡って日本とロシアがすげー喧嘩をしちゃうようになりました。
で、1875年に結んだ条約が「樺太・千島交換条約」!
「シュムシュ島までの千島列島を全部日本のものにする代わりに、樺太は全部ロシアのものね!」という内容ですね!
で、この条約を結んだ時はお互い納得して普通に結べたのですが、後々この条約が大きな問題を生むのです。
その原因が「条約の誤訳」です。
この条約はフランス語で結ばれており、それを各国が日本語やロシア語に訳す、という感じで結ばれたのですが、
フランス語の原文では「シュムシュ島からウルップ島までの千島列島の一部」となっているところが、
日本語訳では、「シュムシュ島からウルップ島までの千島列島」となっちゃったんですね!
当時は択捉島と国後島は元々日本のものだったので、この誤訳は大した問題ではありませんでしたが、後に「千島列島に、国後島と択捉島は含まれるのか含まれないのか」という議論がめちゃくちゃされるようになるのです!
ポーツマス条約(1905年)
その後、日本はロシアと戦争をします(日露戦争)。
で、日本がその戦争で優位になったので、ポーツマス条約を結び、樺太の南半分が日本のものになります!
まさに、日本がノリにノっていた時代ですね!
戦中(1940年〜1945年)
ヤルタ会談(1945年2月)
で、そんなこんなでロシアはソ連に変わり、世界では第二次世界対戦が始まっちゃいます!
日本も初めは善戦していたものの、圧倒的なアメリカの武力の前に劣勢を強いられます。
で、1945年の2月には「もう日本も諦めるだろう」という事で、連合国側のアメリカ・イギリス・ソ連(ロシア)がヤルタ会談にて、戦後のルールを決めちゃいました!
で、そのルールの中に「日本の樺太と千島列島は、ソ連(ロシア)のものにしちゃおう」という内容も盛り込まれていたのです!
日ソ中立条約破棄と占領(1945年8月)
「樺太と千島列島をソ連のものにする!」と決めたソ連は、早速行動に移します。
当時、日本とロシアは「日ソ中立宣言」という条約で、お互いの領土は侵略しない約束をしていました。
しかし、アメリカ軍に敗色濃厚な日本を目にし、スターリン率いるソ連はその条約を破棄し、日本に宣戦布告します!
で、日本が敗戦を認めた1945年8月には、千島列島と樺太に侵攻し、ロシアが制圧しちゃいます。ついでに、歯舞諸島と色丹島もロシアが占領しました。
なので、この時は「樺太の南半分と千島列島は一応まだ日本の領土だが、ロシアに制圧されちゃった」という感じですね!
戦後(1945年〜)
戦争が終わるとマッカーサー率いるGHQが日本にやってきて、GHQの指導のもの、日本の再建が始まります。
で、本土はGHQの管理下におかれましたが、樺太と千島列島はソ連が占領してたので、引き続きソ連が管理することになります。
そして、終戦の翌年の1946年1月には、日本はGHQの命令により南樺太、千島列島、歯舞、色丹での行政権を取り上げられ、ソ連は翌月にそれらの国を一方的に自分のものにしちゃいます!
サンフランシスコ平和条約(1951年)
そして、1951年には日本は世界の国々とサンフランシスコ平和条約を結び、第二次世界大戦で争った国々と仲直りすることになります。
また、この条約により東南アジアや中国などの、日本が戦争によって奪った領土を、手放すことになります。
そして、この条約の中には「樺太と千島列島を手放す」ことも含まれていました。
ただ、この「千島列島」に「国後島と択捉島が含まれるのか」という点がすごい曖昧だったんです。
日本政府の見解としても、1950年代前半には「国後と択捉は千島列島に含まれている」と言っていたが、1956年にはそれを撤回し「やっぱり含まれないよね」と言ったりと、ブレブレでした。
しかも、この条約にソ連は参加していなかったので、この条約では「日本は千島列島の領有権を手放したけど、かと言ってソ連のものになったわけでもない」という宙ぶらりんな状態になっちゃったのです。
ただ、ソ連からしたら「千島列島と歯舞・色丹は1946年に俺らのものにするって言ってるし、GHQもそれを認めた。しかもこの条約で日本が手放したから完全に俺らのもんやん!」という感じになりました。
なのでこのタイミングで、日本とソ連の間で、北方領土に関しての認識の差が生まれたのです。
日ソ共同宣言(1956年)
戦争が終わると、戦争中に対立していた国々は、仲直りのために平和条約を結びます。それが上のサンフランシスコ平和条約でした。
でも、ソ連はサンフランシスコ平和条約に参加していなかったので、日本とはまだ仲直りしていない状態でした。
ただ、その状態も続くのもまずいので、1956年には「日ソ共同宣言」という条約を結び、仲直りします。
で、普通は平和条約を結んで、その際に戦争で曖昧になった国境もハッキリと決めるのですが、この日ソ共同宣言では、国境は決めることができませんでした。
日本側の主張は「千島列島はサンフランシスコ平和条約で手放したからロシアのものでいいけど、国後島と択捉島は千島列島に含まれないから、日本に返してね!てゆーか歯舞諸島と色丹島なんか誰がどう見ても日本の領土やから、ソ連のものになっている意味がわからんわ!」という感じです。
それに対してのソ連の反論は「まあ、歯舞諸島と色丹島は確かに元々俺らのもんじゃないから、日本にあげてもいいよ!でも、国後島と択捉島はれっきとした千島列島の一部でしょ?日本は千島列島を手放したよね?で、今はソ連のものになってる。てことで国後島と択捉島を日本に返すとか意味不明なんですけど。」という感じ!
てことで、この日ソ共同宣言では、「歯舞諸島と色丹島は日本に引き渡すけど、国後島と択捉島については引き続き話し合いましょう!」という感じになりました!
日米安保改定(1960年)
で、1956年の日ソ共同宣言により、とりあえず歯舞諸島と色丹島は、日本のものになることが決まりました。
しかし!その4年後にはソ連が手のひらをひっくり返すのです。
その原因は1960年の「日米安保改正」です。
当時、ソ連とアメリカはスーパーウルトラ仲が悪かったのです。いわゆる冷戦ですね!
そこでソ連は「日本がこれ以上アメリカと仲良くするねんなったら、やっぱり色丹島と歯舞諸島もあげませーん!!まあ、アメリカ軍を日本から追い出してくれたら話は別やけどね。」と言ったのです!
これには日本も大反発しましたが、ソ連は聞く耳も持ちません。
で、結局歯舞諸島と色丹島も、日本に引き渡されず、という風になっちゃったのです!
そして、現在も択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島は日本に返還されていないのです。
現状のまとめ
ということで、これまでの歴史の流れをまとめてみましょう!
上の流れで見ると、一言で「北方領土」といっても「国後島・択捉島グループ」と「色丹島・歯舞諸島グループ」に分けられるので、別々に見ていきますね!
国後島・択捉島
ポイント1:国後と択捉は、千島列島に含まれるか?
含まれるのであれば、日本はサンフランシスコ平和条約で権利を放棄したことになるし、含まれないのであれば、日本は権利を放棄したことにならないので、ロシアの実効支配はダメ。
ポイント2:ロシア(ソ連)の実行支配はOKか?
ソ連(ロシア)は、ヤルタ会談で「アメリカ・イギリス・ソ連」の3国で話しあった内容を根拠に、占領をしました。
この「3国だけの話し合い」の内容を、国際的な根拠として認めるのであれば、ソ連の実行支配は法的にもOKですし、認めてはならないのであれば、ソ連の支配は認められません。
色丹島・歯舞諸島
ポイント:日本が「2島返還」で妥協するかどうか?
色丹島・歯舞諸島は、国後島・択捉島と比べて面積もめちゃくちゃ小さいので、ロシアとしても「色丹と歯舞を日本のものにして、日本が引き下がってくれるんやったら、別に日本のものにしてあげてもいいよー」という姿勢を見せています。
でも、日本側は「いやいや、俺らが返して欲しいのは色丹と歯舞だけじゃない!択捉と国後も返せよ!」と、拒否しているような感じです!
なので日本側としては「色丹・歯舞だけで妥協できるなら、北方領土問題もすぐ解決できる」が、「あくまでも4島すべての返還にこだわっている」現状なのです!
また、日本は「北方領土は元々すべて日本のもの」と考えているので「色丹・歯舞の返還」という言葉を使いますが、ロシアはロシアで自分のものと考えているので「色丹・歯舞の譲渡」という言葉を使います。
今後の行方
以上のように、ロシアは「色丹と歯舞の2島譲渡」で北方領土問題を終わらせたいのに対し、日本は「色丹・歯舞はもちろんのこと、国後・択捉を含む4島返還」を主張し続けている、というのがこの北方領土問題なのですね。
この問題が解決する時は、日本とロシアがそれぞれの領土を明確にした「日露平和条約」を結ぶ時です。
日本は、長年ロシアと対立していたアメリカとスーパー仲が良いので、日本とロシアはそんなに仲良くなれませんでした。
しかし、アメリカとロシアの対立も徐々に和らいでいき、日本とロシアの距離も徐々にではありますが近づいてきています。
2016年12月には、ロシアの大統領としてまさに11年振りに、プーチン大統領が来日し、北方領土問題の進展も期待されましたが、ほとんど動きがないまま終わってしまいました。
はたしてこの問題が解決する時は、北方領土は日本のものになるのか、ロシアのものになるのか、目が離せませんね!